9月の映画覚え書きその3 画家と庭師とカンパーニュ

2008年09月16日 21:00

老いてから再会した幼なじみのふたり。功成り名遂げたパリでの生活を終え、カンパーニュの生家にひとり戻った画家。庭師募集の広告に応募してきたのが、小学校時代同級生だった庭師。フラッシュバックされる子どもの頃ふたりで仕掛けたいたずら。互いにその消息を尋ねあうこともなかった長い時間に起こったさまざまな出来事を語り合うふたり。
貧しい家庭で生まれた庭師は、国鉄職員として過酷な保線の仕事を続け、地道で平凡だが心の底から妻を愛する日々を過ごしてきた。労使間闘争がきっけけとなって退職、長年の夢だった庭師となったのだ。
画家は、一見はなやかで、恵まれた日々を過ごしたかに思われるのとは裏腹な寂しさをかこつている。度重なるモデルとの浮気に家庭は崩壊寸前。ある日、画家を訪れた娘は自分と何歳も違わない男と結婚すると言う。父親の反対を押し切ってまでなった画家の仕事ではあったものの、顧客に意に添う制作は、絵に向ける意欲を削がせてもいた。

共に過ごす時は永くは続かなかった。だがその「時」がもたらしたものは計り知れない。

「クリクリのいた夏」のジャン・ベッケル監督作品。「クリクリのいた夏」で描かれていた自然、人間模様に魅せられ、今回の作品への期待値大だったゆえか、見終わったあとに自然に「あー、よかった」と思えない何かが残った。ふりかえってみれば、ほどよいユーモアと、ドラマ性、箴言のごとくひびく庭師の言葉、画家の心持の変化が過不足なく描かれた佳作ではあるのだけれど。

それと日本語字幕が見えにくくてせっかくの映画鑑賞を台無しにしてしまっている。冒頭、白っぽい画面に白色の字幕、字面を追っていると映像が見られない。観る側にたった配慮があれば何とかできたはず。残念でした。

9月の映画覚え書き その2 幸せの1ページ

2008年09月16日 20:00

オーストラリア在住の作家、ウェンディー・オルーの『秘密の島のニム』(あすなろ書房)を映画化。原タイトルは“Nim’s Ialand”。

無人島で暮らす親子。娘が愛してやまない冒険小説の主人公アレックス・ローヴァー。果敢な冒険家
アレックスを生みだしている作家アレクサンドラ・ローヴァーは極端に潔癖性で、対人恐怖、外出恐怖の女性。アイディアが枯渇しそうでPCに向かっていたアレクサンドラは、無人島の火山のふもとで暮らす海洋生物学者の記事に目をとめ、その火山の実態を問い合わせるメールを送ります。そのメールを読んだのは、ひとり海に出たまま嵐にあって戻らない父の帰りを待つ娘ニム。父に代わり火口を調べ
返信するニム。メールのやりとりをするうちに父親との無線での交信が途絶え、アレクサンドラに助けを求めるニムですが、それに応えるためには越えなければならないハードルがたくさんあります。それでも何とかたどりついた島で「助けにきた」と告げた時、ニムは待ちわびたお話の主人公アレックスではない、とはじめは拒絶しますが徐々に心をゆるすようになります。

怯える心が、果敢な心へと、踏み出していく。奇想天外とも思えるファンタジックな仕掛けで語られるのはたった一歩ふみだすことで、大きな転換が待っているかもしれない、という励まし。

アレクサンドラのジョディー・フォスター、ニムのアブゲイル・ブレスリン、どちらも天性、演じることに長けています。アブゲイル・ブレスリンは2006年10歳で出演した「リトル・ミス・サンシャシン」で注目され、この映画に抜擢されたそうです。

テラビシアにかける橋

2008年09月12日 18:00

キャサリン・パターソンの同タイトルの児童文学『テラビシアにかける橋』が原作。
貧しい家庭に育った少年の日々は、小説家を両親に持つ少女が引っ越してきて隣人となってから一変する。才気煥発な少女とともに築いたふたりだけの国テラビシア。現実との一続きに展開されるファンタジックな世界にふたりで生きることで少年の得た充足感を映画は中盤余すところなく描いていく。
ところが、後半、物語は少年に過酷な試練を与える展開となる。タイトルにもある「橋」が光の見える結末への鍵となる。

ウォルター少年と夏の休日

2008年09月08日 16:00

頑固で偏屈、財産を隠し持っていると噂されているおじさんふあtりが住む家に、育児放棄して男のもとに身を寄せる母に捨て置かれるようにして預けられた少年のひと夏。
ところが、このおじさんたち、ただものじゃない。少年に語られた過去の冒険譚は奇想天外。でもその芯にあるものは、まっとうなひとの心。そこのところにふれたウォルター少年が、それを受け止める様が素晴らしい。

9月の映画覚え書き その1  「崖の上のポニョ」

2008年09月01日 21:00

夏休み明けとはいえ始業式の日だったので、子どもたちのいる空間特有のざわめきの中で観ました。
自ずと呼び覚まされるのは、今はなき地元の、劇場で、両脇の娘たちの笑いや、嘆息を間近に感じつつ「となりのトトロ」を観た時の記憶。ポニョはメイを彷彿とさせる吸引力を持つ「さかなのこ」。この子が「宗介のとこいく。人間になる。」という意志を貫き通し、5歳の宗介が「ぼくが守ってあげるからね」の言葉を違えずにポニョを守り抜く。フジモトの過去やグランマンマーレへの思い、命の水をストックし続けた意味が、物語の中で、充分に届くように描かれているのか、子どもたちにはどんなふうに届いているのか、との疑問も残る。されど…、と思わせる何かがある。ぽ〜にょぽ〜にょぽにょって歌っている子どもたちをこの夏どれだけ見かけたことか。

この夏いろいろその5 「エリザベート」

2008年08月26日 21:00

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1854年、オーストリア、ハプスブルグ家の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に嫁いだエリザベートの生涯を、彼女に魅入られ、その命を永らえさせてしまい、常につきまとうように彼女の側にいる黄泉の帝王トート(=死)と、彼女を暗殺、11年牢屋にとじこめられたものの死刑とはならず自殺をしたが、その暗殺理由を問いただす声に、死後も脅かされ続けるルイジ・リキーニを登場させることによって、物語性の高い音楽劇といった感じのミュージカルとして見せてくれる「エリザベート」。今年から来年はじめにかけての公演で、700回を超える実績が納得できる舞台でした。
この作品、トートの側からとらえた物語として演出された宝塚での舞台が日本初演。東宝版は、ウィーン版ミヒャエル・クンツェ、シルヴェスタ・リーヴァイのものにより近い演出となっているようです。

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エリザベートの母ルドヴィカは、バイエルン国王の娘として生まれ、バイエルン公爵の嫁ぎ、1937年にエリザベートが誕生。その姉ゾフィーはオーストリア皇帝に嫁ぎます。18歳で実務能力のなかった父に代わり皇帝となった息子フランツ・ヨーゼフは、彼女の意のままに政務をこなすこととなります。
そんな背景の中、母と叔母の画策によってエリザベートの姉と、フランツ・ヨーゼフのお見合いの席に同席したエリザベート。姉はまったく眼中になく、エリザベートを見初めるフランツ・ヨーゼフ。
田舎の公爵家に生まれ、人生を謳歌する自由主義者の父を愛し、父のようになりたいと願った少女には、過酷な現実が待ち受けています。
自分の生んだ子どもも自分の手で育てることができない。皇太后の意のままに動く夫と心通わすこともないままに、皇后としての公務を怠り、おしのびで旅の日々を過ごします。ハイネの詩を愛し、自らも詩を残したエリザベート。その詩は、死への憧憬の色濃いものでした。皆に望まれた男の子を出産した21歳の頃には、夫との関係も最早修復のできないものになりつつありました。ミュージカルの中で、皇太后の画策によって、夫が女に手を出すことになるのもこの頃のことです。

「パパみたいになる」と言って、木に登り、野山を歩いていた、天衣無縫の少女シシィ(エリザベートの愛称)は、シシィのままでいられなかった。
時代に、出自に、皇太后に、翻弄され、それでも貫こうとした「わたし」。扇で顔をかくし、従者を従えておしのびで出歩く日々に一瞬でも、「わたし」が「わたし」らしくのびのびと息をし、少女シシィの頃の憧れの時を過ごしていると実感したことがあったのでしょうか?そこにつきまとっているのが、トート=死、である、というこのミュージカルの仕立てに既にその答えが用意されているようです。

涼風真世主演、ミヒャエル・クンツェ、シルヴェスタ・リーヴァイのコンビによる「マリー・アントワネット」
を昨年大阪で観て、ウィーン発のミュージカルに、ブロードウェイやウェスト・エンド発のものとは違った魅力を感じました。涼風や、山口祐一郎の歌唱力、演技力、舞台美術や衣裳に支えられて、濃厚な物語性を持った音楽劇を堪能しました。

「エリザベート」は名古屋公演もあるということで、ダブル・キャストが組まれていましたが同じ涼風、山口の組み合わせで、鑑賞。涼風は、「マリー・アントワネット」同様、苦渋に満ちた後半生を、演じきり見事。その楚々とした風情との落差に昨年は驚きました。山口トートの存在感は圧倒的。それにしても、リーヴァイの曲を歌うのは、むずかしいでしょうね。耳に心地よいミュージカルナンバー、というのとはひと味違った素敵な曲の数々なのですけれど。終わっても容易に口ずさめない。


この夏いろいろその4 「歩いても歩いても」「あの日の指輪を待つ君へ」

2008年08月18日 21:00

対照的な2本の映画を観ました。
さしたる事件も、展開もなく、ある家族の夏の2日間を描いた「歩いても歩いても」と、アメリカとアイルランド、第二次世界大戦から50年を経て明かされる真実」という壮大なドラマ「あの日の指輪を待つ君へ」。

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日々の営みには、さほどドラマティックな出来事があるわけでもなく、どこにでもありそうな、でも微妙に違う、それぞれの日常がそれぞれの家庭で過ぎていくのでしょう。
溺れそうな子どもを救うために命を落としてしまった長男の命日に集った一家の2日間を淡々と撮った「歩いても歩いても」。肉親と雖も、それぞれが「個」であることを、肌で感じざるをえないちょっとした会話。記憶のすりかえ。老親の思いの伝えようと受け止める側の温度差。茗荷と枝豆のご飯、、おばあちゃんのその調理の手さばきの見事さと娘のやる気のなさ。とうもろこしの天麩羅づくりに欠かせない「器用な」息子の仕事。そのままを「私」になぞらえることができないとしても「近似値私」が近似値疑似体験を経て、何かを感じる、という映画でした。

アイルランドの米軍の戦闘機墜落現場で見つかった指輪をめぐる物語「あの日の指輪を待つ君へ」は、輝くばかりの美しさで3人の若者を虜にした女性エセル・アンが辿る人生を、彼女が生涯を共にした夫の葬儀の場面から振り返りつつ、辿ります。
彼女を愛した3人の若者の中で彼女が愛したのはテディ。3人の若者はまた固い友情に結ばれてもいます。出征前のテディは2人の住む家を友人たちの助けを借りながら建てます。2人の密かな結婚は、親友のチャックとジャックだけに見守られて見習い神父のよって執り行われます。そこでエセル・アンからテディに渡されたのが二人の名前を刻んだ指輪。そして、テディは「もしものことがあったら、エセル・アンを頼む」と友人ふたりのうち身持の堅そうなチャックに言います。その「もしも」が現実となってしまった21歳の時人生が終わった、と負傷して帰還した後彼女の夫となったチャックの葬儀の後に、その事情をまったく知らず不審な思いでいる娘に向かって述懐するエセル・アン。
ところが、テディの最期の場所、アイルランドのベルファストで、名前の刻まれた指輪を掘り出した青年ジミーが、同じベルファストの丘を爆撃テロの拠点としていたIRAのテロ組織とのからみもあって、アメリカのエセル・アンのもとに指輪を届けることになったことから、物語は新たな展開をみせます。
そこに一枚かんでくるのがベルファストの町での誠実な消防士としての一生の中で、エセル・アンはもちろん、チャックやジャックも知らないテディとの接点を持ち、その約束を果たすために墜落現場の丘を掘り続けるクィンラン。ジミーは持ち前の好奇心からクィンランの発掘を手伝っていたのですが、クィンランがテディとの約束を果たすために一役かうこととなり、エセル・アンをアイルランドへと導きます。そしてジミーの祖母エレノアは、戦争中にもかかわらず派手ないでたちで米軍兵士たちとかかわっていた過去を持ち、実はエセル・アンへの思いを断ち切るために求婚したということも知らずにジャックの写真を大切に持ち続けているのです。
物語の終盤、すべての事情を知りつつ、自らの思いも封印したまま、友人としてエセル・アンを見守り続け、彼女の娘マリーからの相談にものってきたジャックは、ジムとエセル・アンを追ってアイルランドへ。物語は新たなはじまりへの予感を持って幕を閉じます。

対照的、とは言いましたが、2つの映画に共通することがひとつ。
かけがえのない人を亡くした後に残された人々が辿る人生に落とす影。
若くして喪われた者は、愛する者にとっては年月を経ても、その最良の思いに繋がって思いおこされます。
でもそのことを身に染みて、感じている当事者も含め、時は刻まれ、日々の生活は廻っていく。
「歩いても歩いても」で、亡くなった長男が助けた少年は、命日のたびに恩人である長男の家に招かれる。「15年もたつんだからもういいんじゃない」という声を聴く耳を母は持たない。次男には、優秀でひとり家族の期待を担っていた兄の前にたたされている感じがいつまでもしている。
エセル・アンの人生が21歳で終わった、としたら、その10年後に生を受けた自分は何なの?と彼女の娘が感じるのもしごく自然なこと。娘を溺愛した父親との間に愛もなく授かった命なのか、と疑心暗鬼にもなります。人生経験を積んで、母には母の事情と封印してきた深い思いがあり、父は父で篤い友情と母への愛に生きたのだ、と了解しえた、としてもその思いは残るのではないでしょうか。

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